今治宗忠神社


今治・宗忠神社は、黒住教今治教会所として、明治十一年(1878)に創建され、「病気平癒、商売繁盛、交通安全、開運の神様」として広く尊崇されている「宗忠の大神」をお祭りしています。宗忠の大神は、黒住宗忠といわれる方で、江戸時代中期の安永九年(1780)に備前国(岡山市)今村営の神職の家に生まれましたが、若くして両親を失い、当時は不治の病とされた結核を患うなどの厳しい修行の末に、文化十一年(1814)冬至の朝、日の神(天照大御神)を拝する中で悟りの境地に至ります。 以来、宗忠様は世の苦しむ人々、助けを求める人々のために祈り、教え導き、多くの人々から教祖と仰がれるようになりました。宗忠様昇天後、安政三年(1856)に朝廷から宗忠大明神の神号が与えられ、幕末に京都の吉田山(京都市左京区)に祭られた神楽岡・宗忠神社は、孝明天皇より勅願所と定められました。明治以降は、黒住教の教祖として全国の教会所へ祭られ、生誕の地、岡山市北区上中野には大元・宗忠神社が鎮座され、多くの人がお参りに訪れています。

 

 

黒住宗忠

教祖黒住宗忠は、安永9年(1780)11月26日(旧暦)の冬至の日の朝、代々今村宮(岡山市)の神職をつとめる家に生まれました。幼少時より孝心あつ く、20歳のころ「生きながら神になる」という志を立てましたが、それも「真の親孝行とは」と自問する年月の中に見いだした結論でした。「心に悪いと思う ことを決して行わず、善きことのみを実行する」との厳しい目標を自らに課して“神になる”道を歩んだ宗忠でしたが、数えて33歳の時、かけがえのない両親 が流行病でわずか1週間の内に相次いで亡くなり、その悲しみがもとで当時不治の病といわれた肺結核に侵され、2年後には明日をも知れない状態に陥りまし た。 死を覚悟した宗忠は、文化11年(1814)1月の厳寒の朝、幼いころから両親とともに毎朝手を合わせてきた日の出を拝みました。この“最期の日拝”の祈 りの中に、宗忠は知らず知らずのうちに大変な親不孝をしていたことに気づき、せめて心だけでも両親が安心する人間に立ち戻らねばならないと大きく心を入れ かえました。この世との別れの日拝は、新たな“生”への祈りに転回したのです。この心の大転換により、宗忠の暗く閉ざされた心の中に陽気な感謝の気持ちが よみがえり、その結果わずか2カ月で不治の病を完全に克服しました。 その年の11月11日、この日は昔から「一陽来復」と称され、物事が新たに始まる時とされてきた冬至の日でした。安永9年の冬至の朝に誕生した宗忠が、死 の淵を乗り越えて34回目の誕生日をこの日迎えたのです。昇る朝日に格別の思いで祈りを捧げている時、宗忠は天照大御神と一体になるという“神秘的宗教体 験”を得て、いわゆる“悟り”の境地に立ちました。黒住教では、このことを「天命直授(てんめいじきじゅ)」と称して、立教の時としています。 以来、宗忠は世の中の苦しむ人や助けを求める人のために昼夜を分かたず祈り、教え導き、多くの人々から“生き神”と称えられ、すでに神仕えの身であったこ ともあって自然な姿で教祖と仰がれて現在に至っています。宗忠がその形を離れて天に昇ったのは、嘉永3年(1850)2月25日(旧暦)のことでした。 宗忠在世中に、現在の教団の基礎が築かれ、すでに数万の信者(道づれ)を擁していましたが、宗忠の昇天後、その生誕地であり住まいのあった岡山市上中野 (宗忠の教えが「神道の教えの大元」と称えられたことにより、この地は“大元”と呼ばれてきました)を中心に、全国規模で布教がなされました。 神の位を非常に重んじていた江戸時代に「宗忠大明神」という最高位が授けられ、時の孝明天皇(明治天皇の父君)の信心も得、宗忠をまつった京都・神楽岡の宗忠神社(文久2年〔1862〕鎮座)は建立後わずか3年にして孝明天皇の勅命による唯一の勅願所(時の天皇が国家・国民の平安を祈るために指定した神社・仏閣)に定められました。 昭和49年(1974)10月27日、都市化の進んだ大元の地を離れて、黒住教本部は神道山(岡山市尾上)に、壮大な日の出を求めて遷座しました。大元には明治18年(1885)鎮座の宗忠神社が今もまつられています。